指導哲学

Teaching Philosophy


英語を学ぶとはどういうことか。香港・ニューヨーク・ロンドンでの生活を通じて、私がずっと問い続けてきたことです。

英語を母語とする人々は、相手が使う語彙、表現の選び方、言葉のリズムから、その人の教育と知性のバックグラウンドを、ごく自然に、そして瞬時に読み取っています。意識的にではありません。ただそうなのです。そしてイギリスでは、それに発音が加わります。

発音は、教養の一端を示す力を持っています。かつてそうであったように、今もそうです。

私が生徒に課す週一度の課題のテーマ——環境問題、動物福祉、社会的責任——は、欧米の知識層にとってはただの常識です。専門的な知識でも、特別な教養でもありません。食卓の会話に自然に登場するものです。それを知らないということは、残念ながら、相手が表面上は何も変えずとも、心の中で静かに距離を置く瞬間を生んでしまうことがあります。

私はそれを、正直にお伝えしたいと思っています。厳しい言葉に聞こえるかもしれません。しかし本当に国際社会で対等に生きたいと思うなら、発音と同時に、その社会が共有している問題意識を持つことが必要です。それは私の個人的な見解ではなく、私がその社会の中で長年生活してきた経験から得た、率直な観察です。

美しい発音は、扉を開ける鍵です。しかし扉の向こうに何があるかを知らなければ、鍵だけでは十分ではありません。

美しい発音は、対等なコミュニケーションへの入口に過ぎません。

発音を磨いた先に、実際に何を話すのか。イギリスに長年暮らし、国際社会の中で生活してきた経験から、私が肌で感じてきた現実があります。環境問題、動物福祉、社会的責任——これらは現地の日常会話の中に当然のように存在しています。

発音がどれだけ洗練されていても、こうしたテーマへの理解が欠けていると、会話の中で明らかな断絶が生まれます。ただ、見えないギャップが存在するのです。

私が週に一度の課題でこれらのテーマを取り上げるのは、そのギャップを埋めるためです。発音と教養は、切り離せないものだと考えています。


まずはレッスンを

レッスンを予約する